集団的自衛権の行使容認の目的は 米国との軍事同盟!!
おさらいとして、国連について簡単にまとめると、次のようなことが言えます。
国連は国際政治上のひとつの場に過ぎず、主権国家である各加盟国は、自分の主権を制限して国連に移譲しようなどという気持ちは、さらさらない。国連は国際社会において、主権国家の上を行く上級の権威ではなく、国連でものをきめるのは、加盟国自身なのだ。
さて、今回は、前回の内容を踏まえて、現在、最もホットな政治的問題である集団的自衛権について、小室直樹氏の『新戦争論(光文社文庫)』から抜粋してご紹介します。

国連憲章は、四種類の戦争を認めている。それは、「個別的自衛権」及び「集団的自衛権」の行使の二つであり、それに第二次世界大戦の敗戦国に対して、国連の原加盟国には、例外的に「敵国条項」の発動が許される。さらに、集団としての国連自身には「強制行動」が認められている。いずれも、当然に武力行使が想定されるので、まさに戦争そのものである。
国連憲章上、国連加盟国は、「武力行使が発生した場合には」個別的または集団的自衛権を行使するのはかまわないことになっている。ただし、安全保障理事会が、なんらかの措置をとるまで、という原則上の条件がついている。(第五一条)
(中略)
これには、いくつかの問題がある。
第一に、自衛権というものは、一般国際法上、昔から確立されている固有の権利であるが、国連憲章は、果たしてこれに制限を加えたものであるのか。具対的には、自衛権の行使の認められるのは、武力攻撃を受けたときだけなのか、という問題である。あからさまに武力攻撃はしかけてこないが、陰に陽にあらゆる手段を用いて圧迫を加え、武力行使の威嚇まで受けたとき、どうなるのか。
(中略)
ある者は、それ(武力での対抗)は当然制限されるものと主張した。そうでなければ、国連憲章の精神からして、この条項はあまり意味がなくなるのではないか、というものであった。また、ある者は、「武力攻撃が発生した場合には」の表現は一つの例示であって、古典的な自衛権は制限されていないと主張した。自衛権などという固有の権利は、個人の基本的人権のようなものであって、簡単に取り上げられるはずはないのではないか、との理由であった。
では、各主要国政府の公式の解釈はどうなるのか。
(中略)
後者の説に傾いているにきまっている。国際法の基本的な大原則の一つに、「疑わしきは主権に有利に解釈せらるべし」というのがある。なるべく、法的拘束から逃げようとするのは当たり前だ。
第二に、集団的自衛権とはいったい何なのか。
(要約:個別的自衛権だって、乱用されたら際限はない。なんでもかんでも自衛戦争という言い訳ができ、実際にそうである。)
その上に、集団的自衛権まで認めたらどうなるか。集団的自衛権とは、自国に直接関係はないが、友好国に外部から侵略の事態が起こったならば、これを救援に赴いてもよいという権利である。これは便利だ。これで自衛戦争の範囲が、格段に広がった。
ここで、とくに指摘しておきたいのは、集団安全保障機構の問題である。
たとえば、西側のNATO機構や東側のワルシャワ条約機構がそうである。それだけではない。二国間の安全保障条約も、じつは本質的に同じことなのである。もちろん、日米安全保障条約もその一つだ。
これは何を意味するか。ひと口に言えば、国連憲章に言う「集団的自衛権」という権利を、別の条約で手当てして、これをそっくりそのまま義務とするものである。いずれも加盟国の一つが武力攻撃を受けた場合は、他の加盟国は武力をもって救援する義務があると書いてある。権利を義務に転換するとは離れ業もいいところだ。
なんのことはない、これでは第二次世界大戦前の「攻守同盟」と変わらないではないか。かつて、いたずらの戦争を拡大するから適当でないと道義的非難を受けた「軍事同盟」と、どこがちがうのか。
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さすが、小室直樹氏です。
実に明解に解説されています。
安倍首相は、「国民の生命と財産を守る」とか、「国民の生命と平和を守る」という理由で、憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使容認を正当化しようとしていますが、上述の解説によれば、それらはすべて、個別的自衛権の範囲内で十分に対応できるということになります。


同じような知的著名人は、ほかにもいらっしゃるようで、こちらの女史もその一人のようです。
https://www.youtube.com/watch?v=sK6VzrSRe6g



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