判決書を鵜呑みにしてはダメよ! ~嘘つきが勝利する暗黒裁判~
新聞やネットには、この判決に対する様々な論評が掲載されていますが、私はちょっと違った視点からこの判決を考えてみたいと思います。
私の国家賠償訴訟を巡る3つの刑事事件は、告訴したものの、いずれも根拠も無く不起訴にされており、未だ裁判に至っていないので刑事裁判については不明な点もありますが、基本的には民事裁判の判決と、さほど違いがないと思うので、私の経験から得られたことを述べてみたいと思います。
結論としての判決はともかくとして、判決書を読んでまず驚くことは、裁判官の書いた判決文であるにもかかわらず、素人の私の書いた文章がそのまま利用されている部分がけっこうあるということです。それは、相手方の被告についても言えることで、つまり裁判の際に当事者が訴状や答弁書、準備書面に書いたことが、つぎはぎで判決書に取り込まれているということです。
判決書の原告・被告それぞれの主張のところには、法廷で双方がどんな主張を展開したのかが書かれるわけですし、法廷での主張というのは、ほとんど書面での応酬ですので、当たり前といえば当たり前なのですが、このつぎはぎのパッチワークのような作業に裁判官の作為が忍び込む余地があるのです。
つまり、裁判官の思い描いた判決に仕上がるよう、主張全体の中から、都合のよい部分だけが利用され、都合の悪い部分は排除されるのです。
私の国家賠償訴訟での具体的な例を紹介します。
① 原告適確の主張については、かなりのスペースを費やして詳細に記述したが、ほんの数行に簡略化されて要約された。
② 信義則の主張については、最高裁の判例を示してていねいに主張したが、主張していることすら判決書に盛り込まれなかった。
③ 国にとって不利になる主張は、判決書に要約される際に省かれ、本来の主張とは全く違った趣旨のことが判決書に書かれた。(これについては裁判官らを刑事告訴)
④ 国の主張で、担当の行政職員が直接関与した部分については、主張が二転三転していた。同じことについて、あるところでは「認める」、別なところでは「否認する」、またあるところではでは別の説明をしているといった具合だったが、そのひとつを判決書に採用することで、主張が二転三転していたことが判決書からはわからず、あたかも筋が通った主張のように判決書に盛り込まれる。
⑤ 担当の行政職員によって証拠が捏造され、デタラメの主張がされたが、デタラメの主張であっても、判決書に取り入れられることによって、あたかもそれが事実であるかのような振る舞いをする。(行政職員らを刑事告訴)

ですから、判決書のみを読んだだけでは、その事件の真相も、本質的な争点もわからないことになります。
これを踏まえて「陸山会」の事件を考えてみたいと思います。
刑事裁判の判決も、民事裁判のように、裁判官の思い描いたストーリーになるように、検察や弁護側の主張の中から都合がよい部分だけがパッチワークのようにつぎはぎされているとしたら、新聞等に掲載されている判決理由(要旨)を読んだだけでは真相がわからないことになります。
新聞の論評は、この判決理由に基づいて書かれていますので、極めて偏っている可能性が高いのです。
一方、ネットでは、表面に出てこない裏の事情を勘案した上での論評が大半なので、より真実に近づいていると言えます。
陸山会公判の判決理由(要旨)から、文末の表現を拾ってみました。
「~とは到底考えられない。」「~は優に認められる。」「~と見るのが自然だ。」「~したことが強く推認される。」「~は信用できない。」「~しようとしたことが合理的に推認できる。」「~と考えるのが自然だ。」
これらから明らかなように、客観的根拠に基づいて判断されていることはほとんどなく、大部分が推認や推測、裁判官の主観で満ち溢れています。客観的根拠に乏しいということは、事実のように述べられていることが、果たして本当なのか、極めて疑わしいということです。
このような判決がまかり通るのであれば、嘘であっても、それをもっともらしく主張した者が裁判で有利になってしまいます。
要するに、嘘でもデタラメでも裁判で主張さえすれば、それが判決書に盛り込まれ、あたかもそれが真実のように振る舞い、裁判官の推認の材料にされてしまう危険性があるのです。
大嘘つきが勝利するという、まさに、前述の⑤で述べた、私の国家賠償訴訟のようなことが繰り返される可能性が高いのです。
さらに、この裁判で驚くべきことは、4億円の原資について、挙証責任を被告人に求めていることです。
刑事裁判において挙証責任は検察にあります。そのことを、この裁判長はわかっていないようです。(挙証責任は 検察にあり)




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