不正の温床となる 検察・裁判所の前近代性
(前回の記事のコメントに記載したことと重複しますが、改めてこちらの本分でもお伝えします。)
証拠捏造事件での検察の判断を巡り (前回の記事より)
『 検察が不起訴にすらかどうかを決定する際に、考えなければならないことは、不起訴にする根拠、つまり、“捏造されたものではないことを証明する責任”が検察にあるのかどうかが問題になります。
その責任が検察にないとすれば、逆に、捏造されたものであることを証明する責任”は、私にあります。』
検察が起訴・不起訴の判断をする際の基準を、挙証責任の基本的な考え方に基づいて考察してみたのが、前回の記事です。
起訴され裁判になった場合には、検察に、被告人の犯罪を立証する責任がありますが、前回の記事で述べているのは、その前段階のことなのです。
告訴している事件を不起訴にするということは、検察が、その事件性・事件の重大性を認めていないということなので、検察に事件性・重大性を認めさせるように努めるのは、直接の被害者である告訴人の役割です。
同様に、検察審査会は、検察が不起訴にした事件について、告訴人が、再度、審査を求めるところなので、そこでも告訴人は、事件性・事件の重大性をできるだけ立証しなければなりません。(ちなみに、検察審査会が信用できない組織であるということは、小沢氏の件で騒がれる以前から、すでに認識していました。「検察審査会って裁判所の中にあるけど、本当に大丈夫なの?」)
この捏造事件においては、捏造されたことを証明するいくつかの証拠を、私がすでに提出していますので、検察の捜査で得られた情報と照らし合わせ判断することは、本来なら裁判所がすべきことなのです。
ところが、その裁判所の役割である証拠の評価・選別、被疑者の有罪・無罪の判断を、捜査機関である検察が行っているわけですから、告訴人である私が被疑者の犯罪性を立証しなければならない事態になっているのです。
つまり、捜査機関である検察が裁判所の役割を奪い、仕方なく、私が検察の役割を務めているという異常な構図になっているということです。
日本の警察・検察・裁判所は前近代的な組織であり、それぞれ本来の役割を果たしていないために、私の事件に限らず、他の多くの事件でも、このような、おかしなことが起こっているのです。
(詳しくは 「日本の警察・検察・裁判所の特異性」)
検察が、裁判所の機能を奪ってしまった場合、どのような弊害が生じるでしょうか

すでにお分かりかと思いますが、最大の問題は、公開の法廷で審議されるべきことが、検察の密室の中で行われることになり、その結論に至るプロセスがまったく見えなくなってしまうことです。
“なぜ、この証拠を採用し、別な証拠は採用されなかったのか?” “有罪になるべき人が、なぜ、不起訴(無罪)にされてしまったのか?”、そのようなことが、外部の誰にも知られることなく決定されてしまうのです。

検察が恣意的な判断をする傾向にある事件といえば、国家権力による犯罪です。

逆に言えば、国家権力による不正を隠蔽しやすくするために、検察・裁判所の近代化が行われないということになります。



- 関連記事
-
- 不正捜査の手ほどき! (2011/06/25)
- 検察“間” 格差 (2011/05/20)
- 挙動不審な白バイ (2011/02/15)
- 不正の温床となる 検察・裁判所の前近代性 (2011/02/04)
- 挙証責任は 検察にあり (2011/02/02)
- 検察が最も恐れていること (2011/01/22)
- 検察による 事件握り潰しの手口 (2011/01/18)