虚構の法治国家 ~一審の裁判長も依願退官~
もちろん、刑事告訴されたことが原因で退官されたのかどうかはわかりませんが、新聞の片隅に載っていた最高裁人事でそのことを知った私は、軽い衝撃とともに複雑な心境でした。(詳しくは 「二審の裁判官が依願退官!刑事告訴との因果関係は?」 をご覧ください。)
そして今年、県内版に載っていた最高裁人事で、一審の高原章裁判長の依願退官を知りました。このときは不思議と心の動揺がなく、すんなりと受け入れることができました。
一審の高原章裁判長に対しては刑事告訴をしていません。
それは、どんなにおかしい事実認定であっても、また、どんなにおかしい証拠採用であっても自由心証主義の下に違法性を問うことができないからです。
しかし、二審の大橋弘裁判長と同等以上に、一審の高原章裁判長を罪深く感じるのは、それまで私が抱いていた司法に対する信頼を根底から覆す核ともいうべき存在であるからです。
言い換えれば、日本は国民主権の法治国家であり、裁判所こそは正しい判断をしてくれるはずと信じていたからこそ、国家賠償訴訟を提訴したわけでありますが、その私を完全に失望させ、裁判のデタラメ振りを思う存分思い知らせた張本人が一審の高原章裁判長だったのです。
とにかく、私の一審は特異な経緯を辿りました。
といいましても、後にも先にも私が裁判にかかわったのはこの事件のみですし、他人の裁判を傍聴したこともありませんので、他と比較してどうだというわけではありませんが、誰が見ても明らかにおかしかったのです。
当初は単独の裁判官で行われ、被告の主張がとにかく二転三転していましたので( 「労働基準監督署職員の隠蔽工作が被告国の支離滅裂な主張を誘発(一審・9)」 を参照。)、第3回口頭弁論で第5準備書面を陳述した以降は、被告からは反論らしい反論はありませんでした( 「被告国の主張にとどめを刺し 最終決戦となった私の第5準備書面!(一審・11)」 を参照。)。
被告からの反論がないことを確認した裁判官は、被告の訟務検事の方に向かって、「決まりましたね。」というような感じのことを伝えました。
その瞬間、それまで険しい表情をしていた訟務検事は、こちらを見て微笑みました。
そもそも不安な気持ちで始めた本人訴訟でしたが、実際に始まってみれば、不謹慎かも知れませんが、ある種の知的ゲームという感じで、被告の主張の矛盾を突くのがけっこう痛快でしたし、予想以上に早い決着に、ちょっと拍子抜けしたほどでした。
真相糾明のために、国のほかに2人の公務員も被告に加えていたので、その後の裁判は、その三者の賠償比率を次回まで検討しておくというところで年度末になり、それまでの裁判官は転勤になりました。
ほぼ決まりかけた判決だったのですが、新年度からは、3人の裁判官の合議体(高原章裁判長)で行われ、判決までに、さらに1年もかかってしまうのです。
結局のところ、一審には1年9か月もかかったにもかかわらず、そのほとんどの期間を費やして審理された内容には一切触れられず、書証などの客観的証拠を完全に無視し、それまで二転三転する主張を繰り返し、捏造した証拠まで提出した労働基準監督署職員の虚偽の証言を証拠として採用し、私の請求を退けたのです。
結果に納得できないだけではなく、そこに至る経緯においても不信感をもちました。
その辺のところは、そのうち詳しくお伝えしようとは思いますが・・・・
たとえば、私が事前に提出した準備書面で詳しく書いていたにもかかわらず、そこに書かれているようなことを高原章裁判長から質問され、本当に私の書面を読んでくれたのだろうかと疑問を持ったこともありました。
また、高原章裁判長と担当裁判官の意見の相違があって、担当裁判官が私に釈明させ、高原章裁判長の理解を求めることも何度かありました。
結局、最終的には高原章裁判長の意見が押し通されたようです。
本人訴訟でしたし、たとえ請求が棄却されたとしても、それなりに納得のいく判決理由でしたら控訴はしないつもりでいました。
ところが、判決書を見て愕然としました。
前述のように、1年9か月も費やした審理が全くの無駄になり、しかも、証拠として最もふさわしくない証拠が採用されていることに、まったく驚きましたし、著しい憤りを感じました。
二審(大橋弘裁判長、鈴木桂子裁判官、岡田伸太裁判官)こそは正しい判断をしてくれるのではないかと期待しての控訴でしたが、虚偽のことを判決書に書かれ、さらに、判決理由が矛盾しており、このことが、デタラメ裁判の実態についての認識を決定付けました。
公正・中立であるべき裁判がデタラメであるということは、日本は虚構の法治国家なのです。
そのことに気がつく原点となったのが一審判決だったのです。
裁判が公正に行われているかどうかを、中立的な立場の第三者がチェックする制度は、今のところありません。
権力を盾にデタラメがまかり通っているのです。
体験者が情報発信することが、せめてもの抵抗です。





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