前回の記事では、西松建設の違法献金事件を巡る検察の捜査に関連し、国民の政治に対する不信よりも、国家権力に対する不信感の危険性こそ重大であるというところで終了しましたが、さらに発展させて考えてみたいと思います。 国民の政治に対する不信は、一応、議会制民主主義の形態をとっている限り、国民の意思によってある程度変革することが可能であると思われますが、国家権力に対する不信は、時として個人をターゲットに、その周囲に及ぶ取り返しのつかないダメージを与えるだけでなく、国家権力による行為が明らかに誤っていたとしても、国家権力が自らその誤りを認めない限りは、誤りを修正させることは、ほとんど不可能であるということが最も恐ろしいことなのです。 私は、国家賠償訴訟の経験から、国家権力の暴走の恐ろしさを痛感しています。
二審判決で、デタラメの判決理由が書かれ、上告不受理により、デタラメの判決が確定されてしまいました。多くの時間と費用と労力を費やしたにもかかわらず、何のための裁判であったのかという疑問は解消されることはありません。
それを解決する唯一の手段として、民事訴訟法に従い、裁判官らの刑事告訴、有罪、再審というシナリオを描いたわけです。
それで、裁判官らを仙台地検に刑事告訴したのですが、検察は、立件はしたものの、「嫌疑なし」という根拠のない理由で不起訴処分としました。
さらに、検察審査会に申し立てをしても、仙台地裁のおひざもとの検察審査会は、不起訴処分相当の議決をしました。 控訴棄却の判決の趣旨に合致するように、 “裁判官らによって意図的に作り上げられた控訴人の主張(行政関与の部分が完全に削除されたもの)”が判決理由とされてしまいました。そして、そのことが、控訴理由書と二審判決書というふたつの客観的証拠によって証明できることであっても、国家権力が正しく機能しない限りは解決する術がないのが現状なのです。 少なくとも、自民党政権が継続し、裁判所、検察、行政、マスコミなどの既得権の恩恵を欲しいままに享受している一部の者たちが連携し、かばい合っている以上は、変わらないと思っています。 非合法な手段を行使した国家権力に対しては強い憤りを感じていますが、私には理性が働いていますので、合法的な手段での解決策を探っている状況です。
しかし、仮に、強い怒りに理性を失った人々や国家権力に不信感を持っている多くの人々が、合法的な手段で解決することは、もはや不可能であると認識し、徒党を組んだときには、社会全体が恐ろしい事態に陥ることは、これまでの世界中の歴史からも明らかです。
不合理な社会への批判は、市民を団結させ、特権階級との武力衝突に発展するという、まさに革命前のような状況になりかねません。
そこまでいかなくても、国家権力に対する不満が蓄積した社会は、テロの危険性も高まり、治安の悪化も懸念されます。
昨年11月の元厚生事務次官宅への襲撃事件は、年金問題に対する国民の怒りと重なり、テロではないかと警戒されたことは記憶に新しいと思います。 社会に対する国民の批判や不満を平和的に緩やかに解決する手段として、政権交代が望ましいと考えます。
ですから、政権交代はある種の名誉革命
(流血をみないで統治者が交代した1688年のイギリスの市民革命)ともいえると思います。
その国民の動きを、国家権力である検察が潰そうとしているわけですから、極めて憂慮すべき事態です。 これに関連したことを、北海道大学の山口二郎教授(政治学)が、3月26日の朝日新聞「私の視点ーワイドー」で述べておられますので、ご紹介します。
どんなに偉い方の主張であっても、私は、けっこう冷ややかに批判的に見てしまうところがあるのですが、この山口二郎教授の意見には、素直に共感できました。(全文を掲載します。) 小沢氏秘書起訴
まず民主党が動きを起こせ
小沢一郎民主党代表の公設秘書が逮捕、起訴された事件は、日本の政党政治が国家統治の中での従属変数でしかないことを改めて示した。検察という官僚組織が政治的に中立でないことは、今までの政治家に絡む事件を見れば明らかであった。今回、検察は総選挙直前というタイミングでその政治性を発揮した。民主政治を支えるはずの世論も、検察とメディアの手にかかれば簡単に変えられる。
半世紀以上も日本を統治してきた自民党政権がまさに落城寸前なのだから、旧来の体制に安住してきた人々はたいへんな危機感を抱いているに違いない。政権交代がまさに権力の奪い合いであるという政治の現実を思い出させてくれたことは、この事件の第一の教訓である。政権交代を起こそうとする民主党に対して、この種の邪魔が入ることは考えてみれば当然である。それにへこたれているようでは、政党として未熟である。