砂川判決を持ち出すことの愚かさ
さらに、アメリカですでに公文書が開示されているこの時期において砂川判決を持ち出したことは、最高裁が、主権国家としての威信も尊厳もなく安易に米国の言いなりになる中立性を欠く司法機関であるということを、国内外に知らしめることになります。
今回は、その理由について、次の2冊の本からお伝えしたいと思います。

砂川事件は、昭和32年7月8日、東京都北多摩郡砂川町(現・立川市)に基地がある駐留米軍が、立川飛行場を拡張しようとしたことから起きた。基地拡張のための測量に反対する地元農民とこれを支援した労働者、学生に警察官が暴力的に襲いかかり、基地に立ち入ったとして市民7人を日米安保条約に基づく刑事特別法違反で逮捕・起訴した事件である。
当時、基地拡大を巡る同じような事件が全国各地で起こっており、このような全国的な闘いが勢いづくのを恐れてのことだった。
ところが、東京地裁は、日米安保条約、米軍駐留を憲法違反と判断し、米軍駐留が違憲であれば、刑事特別法も違憲であり、特別に重い刑罰を加えることはできないとして、1959年3月30日、7人を無罪とした。(伊達判決)
折りしも、この時の内閣は、「日米新時代」のキャッチフレーズのもとに、安保条約を強化するためアメリカとの交渉に入っていた(安倍首相のおじいさんの)岸信介内閣だった。
裁判所が米軍駐留を違憲と判断すれば、米軍は日本から撤退しなければならず、安保体制の基礎を崩しかねない。衝撃を受けたアメリカは、日本政府に対して、高等裁判所を飛ばして最高裁判所に跳躍上告することを勧め、最高検察首脳会議は4月3日、跳躍上告を決定した。
アメリカが伊達判決を覆すために日本の裁判に干渉していた事実は、国際問題研究家・新原昭治氏が、2008年4月、米公文書館で、10通を超える伊達判決関係の秘密電報を発見したことによるものだ。
それにより、マッカーサー駐日大使(連合国軍総司令官の甥)が、伊達判決の翌日、当時の藤山愛一郎外相と密かに会い、最高裁に跳躍上告を勧めたこと、4月22日には、田中耕太郎最高裁長官と密談し、最高裁の審理見通しなどについて情報交換していたことが明らかになった。
判決は、日本の安全保障条約については、「統治行為論」を前面に押し出して、「安全保障条約が違憲であるかどうかの判断は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものである」として「司法審査権の範囲外」としたが、米軍駐留については、「違憲無効であることが一見極めて明白であることは、とうてい認められない」として15人の裁判官全員が一致して合憲の判決だった。
その論拠としたのは、憲法第9条第2項が禁止する「戦力」の中には、日本政府に指揮権、管理権のない外国軍隊は含まないというものであった。
しかしながら、最高裁砂川判決は、多くの著名な憲法、民法、国際法をはじめ大多数の法学者に受け入れられていない。米軍駐留は依然として、今も憲法違反とみられている。(「対米従属の正体(末浪靖司)」44~46ページ)
田中耕太郎も他の法学者と同じく、憲法制定直後は第9条の熱烈な賛同者であり、支持者であった。
アメリカのマッカーサー駐日大使は、その田中と、大法廷評議の内情を語らせるほどの深い関係を、最高裁長官就任後にいかにして築くことができたのか。
その答えともいうべきアメリカ政府からの働きかけが、アメリカ政府の秘密解禁文書から明らかになった。
アメリカ政府が田中長官と直接、接触するきっかけとなったのは、ロックフェラー財団から日本の最高裁への法律書の寄贈であるが、その機会を、日米安保条約・行政協定締結に重要な役割りを担ったアメリカの政治家が総出で作った。
そもそも、極東米軍司令部は、平和条約発行後の米軍駐留が、戦争放棄、戦力不保持を定めた日本国憲法と相いれないことを知っていた。しかし、日本は、世界戦略の前線基地として米軍がどうしても手放したくない「基地の島」であり、日本に米軍が駐留し続けるために、田中が最高裁長官に就任する以前から長期にわたってアメリカ政府からの系統的な働きかけがあった。
それらは、アメリカ政府の秘密解禁文書から明らかになっており、上記の本で詳しく紹介されています。
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今後、集団的自衛権が違憲かどうか最高裁の判断を仰ぐ事態が訪れるかもしれませんが、砂川判決のように、最高裁長官がアメリカの餌食にならないよう、国民はしっかりと監視していく必要があります。



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