国際社会における自衛権と 国内における刑罰の類似性と相違点
それが、小室直樹氏の、『新戦争論(光文社文庫)』です。
具体的には、国際社会における主権国家の自衛権と国際連合(国連)との関係、それと対比する、国内における一国民と国家機関との関係についてです。
集団的自衛権の行使に賛成なのか、反対なのか、良くわからないという方はけっこういらっしゃると思いますが、知っておくべき知識として、まずは自衛権と国連の関係について、『新戦争論(光文社文庫)』から抜粋してご紹介します。
※ サブタイトルは、私が勝手につけさせていただきました。

日本国民の国連に対する幻想と誤解(主権国家と国連の関係)
日本国民の大多数は、国連とは何か崇高なありがたいものだと思い込んでいる。なかには、世界政府みたいなものだとさえ錯覚している者もあるぐらいだ。少なくとも、人類進歩のシンボルくらいに思っている者が過半数だろう。
(中略)国連中心外交さえ展開していれば、日本は安全で平和だと信じて疑わない。
まったく、とんでもないことだ。
(中略)
国連を見るには、四つのポイントがある。
①国連憲章は戦争を拒否していない。
②国連は建て前としてユニバーサルな機関ではない。
③国連は、第二次世界大戦の現状維持の執行機関である。
④国連は、各加盟国が一般的な政治的了解を相互に模索する場である。
(中略)
国連というのはは、国際政治上のひとつの場に過ぎない。何らかの実態があるわけではない。国連の加盟国は、主権国家である。各加盟国は、自分の主権を制限して国連に移譲しようなどという気持ちは、さらさらない。国連憲章上、古典的な意味で多少の制約は受諾しているが、主権を損なうようなことは絶対にない。むしろ、事ごとに、主権の絶対を強調してはばからない。つまり、国連の主人は、各加盟国であって、国連そのものではないのだ。
だから、国連は国際社会において、主権国家の上を行く上級の権威だと思ったなら、錯覚もはなはだしい。
(中略)
そこが、国内における一国民と国家機関との関係とまったくちがうところだ。もっと乱暴に割り切っていえば、国連でものをきめるのは、加盟国自身なのだ。つまり、日本なのだと気がつかなければいけない。
※ 話題を広げると焦点がぼやけてしまうので、集団的自衛権については、別の機会にご紹介します。
国内における一国民と国家機関との関係
近代社会においては、個人が自力救済を行うことは許されない。もっとも、限られた例外的場合には、許されることがないわけではない。
(中略)
(街路で突如として悪漢に襲われた場合など)刑法上、正当防衛として許される範囲ならば、自力救済もあるのである。しかし、それは非常に厳しい条件の下にのみ認められる。つまり、極端な例外的ケースにすぎない。
このように、近代社会においては、個人の自力救済は原則として認められない。
(中略)
近代国家では、法秩序維持の機能を、国家権力が最終的に独占する、国家権力の本質は、あらゆる権力、あらゆる支配と同様に、元来むき出しの暴力であって、それが合法的に組織化されているものにすぎない。しかし、それは、言葉を換えれば、個々の私人に自己防衛のための暴力を禁じただけでなく、むしろそれをすべて吸収し、その責任までも自らに吸収してしまったという意味である。正義の法の見地から、国家権力が執行するのである。
近代国家は、無名の抽象的な法の執行者として、個々の具体的ケースをすべて処理する。
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国際社会においては、外国からの攻撃を受けた場合を想定し、国内においては、犯罪に巻き込まれた場合を想定していると考えられますが、“外国からの攻撃に対する自衛権”との兼ね合いで考えるなら、国家権力が執行するのは、報復をする目的とする刑罰に該当するはずです。ハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」で知られているように、犯罪に対しては、その責任に見合ったペナルティーを与えるという考え方です。
つまり、国際社会では、主権国家の「正義」の実現には自力救済しか方法はなく、最終的には自己の責任で実力を行使するほかはないということです。
これに対し、近代国家においては、正当防衛などの例外的ケースを除いては自力救済が認められないが、その代わりに、正義の見地から、国家権力が執行するということです。
ここで注目すべきは、法秩序維持の機能を国家権力が独占し、個々の具体的ケースをすべて、正義の法の見地から、国家権力が執行し、自力救済が認められないのは、「近代社会」「近代国家」だということです。
さて、日本の現状はどうかといえば・・・・
「法秩序維持の機能を国家権力が独占している」という点では問題はないのですが、「個々の具体的ケースをすべて、正義の法の見地から、国家権力が執行している」という点では大いに問題があります。
もちろん、“ささいな取るに足らない事件まで、すべて国家権力が処理していないではないか”というような問題ではなく、極めて重大で重要な事件であっても、正義の法の見地から国家権力が処理していない事件が多数あるということです。
いくつか例を挙げるならば、当ブログのテーマでもある、国家賠償訴訟における裁判所や被告代理人による違法行為、さらには、日本国民の誰もが、「日本は法治国家なのかどうか?」と疑いをもつに至った原発事故・・・・、これらの法的な責任追及は、いまだに行われていません。
告訴・告発を受けたとしても、検察は事件の内容によって意図的に選別し、国家権力の行使を放棄しているのです。
その意味では、日本は近代国家ではないのです。科学技術が発展して、生活水準が高くても、国家の中枢である検察や裁判所の前近代性が国家の病巣となっており、近代国家にはなりきれていないのです。
前述にならえば、近代国家ではないのだから、「自力救済」は認められるということになってしまいます。少なくとも、意図的に選別され、国家権力の行使から除外された事件については、それが認められなくてはならないということになります。
当ブログを読んでくださった方から、裁判のあまりに酷いありさまに、「こんな判決ばかり出していたら、そのうち暴動が起きますよ」という趣旨のコメントをいただきました。
まさに、そういう状況になりつつあるのではないかと危惧しています。



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